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静かなる備忘。

レビューと言いつつ映画の感想と触発されて考えたことをだらだら書いています。むしろ後者がメインになりつつある。

新作映画レビュー024: 『太陽』

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『太陽』

監督:入江悠
脚本:入江悠、前川知大
原作:前川知大
撮影:近藤龍人
 
 
僕が毎週の発行及びたまのイベントの度にお世話になっている「僕らのモテるための映画聖典メルマガ」主宰の入江悠監督最新作。自らの文章や口で果敢に映画をガチ批評し、放ったブーメランが頭に刺さって死ぬかもしれないにも関わらず作品を世に送り出す入江監督にまずは敬意を表したい。今更ですがお疲れ様です。
 
入江監督と言えば1年半ほど前、3週間に及ぶ秩父の山中での本作の撮影の真っ只中に下山し出席してくれたメルマガのイベントでお会いした時の表情から疲れの色が見て取れたのが印象的で。僕は初めて実物を目の前にして酔っ払ってる上に緊張してるのに一方的に話しかけまくっていたことをとても憶えている(すみません)。ただその時にたまたま『第9地区』のお話ができたのは本作を観た今思えば僥倖だった。実際、本作の製作のきっかけにもなっているという(ニール・ブロムカンプと入江監督は同い年)。
 
その半年後(今から1年前)、撮影の近藤龍人氏の特集オールナイト上映に行った際、本人にこの作品についてお尋ねした。寡黙な近藤さんはニヤッとしながらボソッと「期待しててください」とだけ言った。本作でもコンビを組んでいる照明の藤井さんも後ろでニコニコしていた。
 
そういうのもあって期待値の高かった本作で入江監督が挑んだ世界はざっくり「近未来SF」。あらすじは以下。
 
-正体不明のウイルスによって激減した人類は、高い技術や知能、精神を持つが陽の光を浴びられない新人類「ノクス」と、現人類と同じ肉体を持つがノクスの管理下で貧しい暮らしを強いられる「キュリオ」に二分されていた。ノクスの暮らしに憧れるキュリオの青年・鉄彦とキュリオのまま暮らしをより良くしたい結の住む村へのノクスによる経済封鎖が10年ぶりに解除され-
 
監督自身も原作の舞台を観た時「なぜおもしろいと思ったのかわからないから映像化したいと思った」というようなことを仰ってたけど、僕も2回映画を観た今でもこの映画に対して何を見出したのかいまいち判然としてない。ただ、今年映画館でリピートした映画は『太陽』が初めてで、1度目の上映後はしばらく立ち上がれなかった。そしてすぐにでももう一度観たいと思った。
 
自分が感じているものの正体が知りたいと。そういう意味では入江監督が原作戯曲から受けた感じをそのまま引き受けてるし、僕にとってはそこを味わわせてくれただけで映画化に成功していると言える。『太陽』の世界をまだ知りたいから、再演される舞台版も観に行きたいし、小説も読みたいと思った。
 
なんでこんなに知りたいと思うか。地面を這う百足でも、ノクスが乗る自動車の駆動音でもなんでもいいけど、具体的なディテールを小出しにしてくるからだと思う。舞台では具体的なセットを用意せず演者のセリフで世界を想像させるのに対し、映画はどんなに小さな小道具にも作り手の意志が介在している。細部へのこだわりによってその世界への想像力が刺激される訳で、これって現実ではない世界を描くSF映画の楽しみ方だなあと書いててしみじみ思う。
 
今日アルバイト先(飲み屋)でおじさんたちが映画の話をしていた。「今の日本映画はテクニックにばかり頼っててダメ。黒澤なんかの昔はマンパワーで何でもやるしかなかったんだから。」とおじさんが言い放った。黒澤の映画全部観た上で言うけど「(てめーマジで『太陽』観たらそんな口叩けなくなるからな)」と歯ぎしりしつつ僕は仕事を続けた。僕が言うのもなんだけど無知を喧伝するのは罪だ。
 
 話はそれたけど、日本で低予算でも高い志と創意工夫、血の滲むような努力でこういう作品ができるんだという希望を見せてもらった気がしている。昨今の日本映画が避けてきたこの道を入江悠監督が切り拓いた。もう本当映画館で観て欲しいです。世界まるごと持って帰っちゃって下さい。
 
 
―ここから先は若干ネタバレ―
 
 
 
ここから突っ込んだ感想。
 
だらだら書いてる間に考えてみたけど、多分この映画から感じたテーマは「環境(或いは世界)と個々人」みたいなことなのかなと。主人公の2人は生まれた時には既にキュリオとノクスに分けられた世界にいた。そんな環境に対して一方は既にある良い環境に加わろうとし、もう一方はそのままの立場で今の生活を改善しようとする。が、若い2人の願いが大人たちの思惑や善意の思いから捻れていく。自分たちのあずかり知らぬところで決められたことによって。(こう書くとやっぱり『太陽』は青春映画のように思える)。
 
大人は大人で、家族を捨ててノクスに迎合する者、絶望した結果新たな可能性を模索(し失敗)する者、ひたすら耐えて子供を守る者など変わってしまった世界に対して様々なリアクションをとってる。『太陽』は残酷な世界に翻弄される人たちの話だ。
 
最終的に2人は抽選の結果(もしかすると作為的な決定の可能性もあるけど)によって正反対の結果を迎える。鉄彦は新たな可能性を模索することになり、結は環境の濁流に飲み込まれ自我の芽を摘み取られる(少なくとも僕にはそう見えた)。二人には強い意志があるにも関わらず終始無力で、若い力で何かデカい奇跡を起こすとかそういうカタルシスは一切なく、為す術なく環境に押し流されていく。だからこそラストシーンは二元論的な環境から新たな方向へ、独立ではなく共生という方法で脱却しようとする二人に僅かな希望が見える。感動的だったのは落陽すらそれを祝福しているように見えたこと。ああ、書いてると入江悠作品なんだなと思う。
 
近藤龍人さんが撮影した『そこのみにて光輝く』ではラストシーンが朝日だったのに対して今回は落陽というところにも入江悠監督作にある「甘くなさ」が比喩的に感じられるのも好きなところ(『そこのみにて~』が甘いなんて口が裂けても言いませんけど)。あの世界を旅してどうなるもんでもないと思うけど頑張って欲しい。
 
鉄彦は自分の不遇を環境のせいにばかりしてて最初は好きじゃなかったんだけど考えてみると自分もそういうとこあるなと。それまでケンケンした野良犬みたいだっただけに橋の上で結を見つめる意志の宿った瞳がすごく印象的。あの時、自分は自分の意志で誰にも邪魔されず一緒にいたい奴と行きたいところに行くと決意してたのかもしれない。周りの都合にがんじがらめにされて思い通りに行かないって誰にでもある普遍的なことで、そこから抜け出すラストってなんだか『トレインスポッティング』を思い出す。こういうエンディングが好きなのかもしれないし、共感している自分がいるのかもしれない。(どうでもいいけど僕がやたら鳥取の砂丘とかアメリカの荒野とかモンゴルの草原とかオーストラリアの岩地とか何もないところに行きたがってるのはこういう心理の表れかもしれないですね。)
 
久々に炸裂した入江監督十八番の長回しシーンにも触れない訳にはいかない。「早くこの地獄が終わってくれ(=カットが変わってくれ)」と思わずにいられないキツさたっぷりでとても効果的だったと思う。抗体を持たないキュリオの悲しい性、キュリオのある種の野蛮さ、(これはまあ村淳の自業自得ですが)排他的な村社会のやだみ、人の心が折れる瞬間が露呈するこの長回しの後でノクスに変わってしまった結を見せられる絶望感たるや。「もうどっちもダメなんじゃねえかな」って思ったから、結局繰り返しになるけどラストシーンは感動的。
 
ノクスは迷いや躊躇いがない正しさの権化みたいな種族で、鶴見辰吾高橋和也門脇麦はそのへんの気持ち悪さを実に上手に表現していたと思う。役者の話で言うと古舘寛治さんが個人的MVP。水に濡れた結の転換申請書を見つめる表情、橋の上での涙、皆の引っ張り出され押し黙る様など、彼のその時その時の心情についてとても考えてしまう。一番深みのあるキャラだった。
 
結局まとまらない感じになっちゃったけど、人気podcast「無人島キネマ」のMCウシダトモユキさんの言葉を借りると「テイクアウト映画(その場で楽しむのではなくあとからじわじわくる映画)」の極地みたいな作品でした。この文章を書いてる内にまた好きになってるのがわかる。僕はこれからどうなるかわかんないけど長い付き合いの映画になると思う。ありがとう。以上です。