静かなる備忘。

レビューと言いつつ映画の感想と触発されて考えたことをだらだら書いています。むしろ後者がメインになりつつある。

新作映画072: 『ハードコア』

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監督:イリヤ・ナイシュラー

出演:シャルト・コプリー、ヘイリー・ベネット、ダニーラ・コズロフスキー

 

 

瀕死になったヘンリーくんは恋人の手によってサイボーグとして生まれ変わり覚醒するも、声帯手術(僕だったら小杉十郎太の声にしてもらいます)の直前に現れた悪い奴らによって空中研究施設(?)からの脱出を余儀なくされ、喋ることのできないまま決死の逃避行、そして奪われた恋人の奪還を開始するのであった。

 

トーリーはこんなもんで、これ以上の展開があったり、物語が何らかツイストしたりすることもない。トニー・ジャーの『マッハ!』並に「奪われたものを取り戻す」のみのお話。

 

僕は映画(に限らずフィクション全般?)は「何を描くか」ではなく「どう描くか」が大事だと思っている(僕モテメルマガの大川編集長の『天空の蜂』の回に詳しい)。それを再確認できたという意味では割と満足した。

 

平たーーーく言えば全編一人称でアクション映画をやり切るというだけでもう面白いということになる。橋のアーチの上登ったりパルクールやったり、マリオジャンプしたりハイウェイから落ちたり。しかもゲームじゃなく実写で、映画館のデカいスクリーンなんだからそりゃエキサイティング。飽きずに楽しんだ。まあ敢えて言うなら今どのぐらいダメージを受けてるのかがわかりづらいかなあというぐらい。最早画面の周り充血させても許された感。

 

ただねえ、完全に好みの話で恐縮なんですけど、自分が映画に求めているのは他者の観察なんじゃないかとも思いました。自分がなりきるんじゃなくて、あくまで一定の距離から見つめていたいというか。

 

ついでに言えば、その他者が映画を観る前や冒頭に「今の自分ではわかり得ない立場や思想の人だ」と感じるほど、その距離が勝手に縮まったと思う時の感動が増します。

 

もう本当に正直に言うなら、なりきりなら自分で操作までできるゲームでやればいいんじゃねっていうのが思うところです。クソみたいに身もふたもないこと言ってるのはわかってるんですけど。そもそもそれを映画でやったろっていう企画でしょうから、別に監督の志や努力とか創意工夫を否定したいわけではありません。「実写の一人称」でアクション映画をやり切ることにゲームと異なる意義があるのは間違いないし、高評価なのもまったく頷けます。

 

ただ今この映画の数多くの元ネタFPSゲームの内に入ってるであろうファークライ4というゲームをやってて、余計にそう思ってる自分がいてなんだかなー!要するに面白かったけど全然残ってないんですよ!さーせん!!