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静かなる備忘。

レビューと言いつつ映画の感想と触発されて考えたことをだらだら書いています。むしろ後者がメインになりつつある。

新作映画065: 『たかが世界の終わり』

 

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監督:グザヴィエ・ドラン

出演:ギャスパー・ウリエルレア・セドゥーマリオン・コティヤール、バンサン・カッセル、ナタリー・バイ 

 

 

「たかが世界の終わり」とか言うので無数にある並行世界を管理するギャスパー・ウリエルが一つの世界の終わりを家族とやるせなく見届ける話かと思ったらそうでもなかった。何らかの理由でもうすぐ死ぬギャスパー・ウリエルが家族にそのことを告げるために12年ぶりに実家に帰る話。

 

原作であるジャン・リュック=ラガルスの舞台版は「まさに世界の終わり」という題が添えられている。「たかが〜」と「まさに〜」では受ける印象がかなり違う。前者は「うん、まあ、終わりだな」ぐらいの感じに思える。後者だと「おしまいだ!!世界の終わりだ!!」とか、何となく絶望感のあるニュアンスがあるような気がする。

 

今作に関しては「たかが世界の終わり」という邦題が合っていたと思う。なぜかと問われたら「諦念」が感じられるからだと答えたい。人が死ねば恐らくその人の世界は終わる。「たかが」という言葉は物事を小さく見たい時に使う。「たかが世界の終わり」という作品には主人公にとっての全ての終わりすら些細なものだと思わせる諦念が漂っていた。

 

何が彼をそのような境地に導いたのか、僕らはスクリーンを凝視して考えるしかない。もっと言えばこの映画は基本スクリーンで現在進行形で起こっていることしか映さない。その中で台詞の端々や、印象的に挿入される思い出の曲をバックにした短いフラッシュバックがある。これが「なぜこんなことになってしまっているのか」という想像力を掻き立てる。ルイや家族が今に至る明確な正解がある映画ではないと思う。そういうところに観客それぞれの生い立ちや家族観が介入してきて味わいが増す。とても映画っぽい映画だと思った。例えば兄貴がルイに強く当たるのは、地元で工具を作ってる自分に対し外の世界に出て活躍する弟へのコンプレックスなのかもとか。

 

僕個人はラストまで見てルイくんをとても応援したい気持ちになった。動物だって家族のいないところでのたうち回って死ぬかもしれないんだから、同じ人間だってそうでいいと思う。家族に何でも言えて、家庭がこれ以上ない安息地というのは良いと思う。そうでなければ別の場所にそういうのを求めればいい。別の港に船を寄せればよい。僕にはそういう風に見えた。作中では説明されないけど、ルイくんは12年そういうのを気持ちで外の世界に接してきたから名うての劇作家になれたのかもしれない。

 

余談。僕の周りに3兄弟の真ん中の人がいるが、結構中立の立場というか、上と下の兄弟、両親の雰囲気を読んで立ち回る立場になりがちらしい。集団の場での自己主張は強くなく、人に合わせることが多い。彼は(妹はまだ小さかったとは言え)そういうのに嫌気が指したのかもしれない。

 

別にとても面白く見たとか特別好きって訳じゃない。でも考える上で自分の人生や境遇を参照し確認する必要がある映画。小津安二郎作品の後味にちょっと近いかもしれない。こうして振り返ると味わいが増す。27でこういうのが撮れちゃって見せ方も印象的なところがある。『マザー』はいまいちピンとこなかったけど、ようやくグザヴィエ・ドランの凄みに気付けたかも。あとギャスパー・ウリエルはかっこよすぎて嫉妬。