静かなる備忘。

レビューと言いつつ映画の感想と触発されて考えたことをだらだら書いています。むしろ後者がメインになりつつある。

新作映画101&102:『あゝ、荒野 前篇・後篇』

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監督:岸善幸

出演:菅田将暉、ヤン・イクチュン、ユースケ・サンタマリア、木下あかり、山田裕貴高橋和也木村多江今野杏南、河井青葉、モロ師岡、でんでん 他

 

あゝ、荒野です。前後篇まとめて。元々劇場公開前からU-NEXTで配信してた関係なのか前篇の公開から1ヶ月経たずに早くもソフト化及びレンタル開始してるので是非観て欲しい。主演の菅田将暉、ヤン・イクチュンを始め上に挙げた役者たちがとにかく皆素晴らしい。ファイトシーンは圧巻。まあ通しで5時間近くあるので家で観るのはしんどいかもですがオススメです。

 

※展開のネタバレなどはしませんが、多少内容に触れます※

 

2021年。上下スウェットに近い格好をした新次(菅田将暉)がラーメン屋に入ってきてラーメンを注文する。傍らのサラリーマンの前にはトッピング全部乗せのそれが出され、手をつけようとする。虚ろな目でそれを凝視する新次。すると、爆発音。サラリーマンを始め店内の人々は外の様子を見に行く。新次も一応ダラダラそれに続く。隣、その隣の軒先で爆発が続く。新次は興味なさげに店内に戻ると、サラリーマンの頼んだ全部乗せラーメンに食らいつく。あゝ、荒野 前篇。

 

なんだこのアバンタイトルは。俺はボクシング映画を観に来たはずだろう。ん、2021年。そうか、これは近未来映画なんだ。日本国内でも爆発事件、もしくはテロが起きるような時勢になってしまってるってことなのか。しかしこの菅田将暉は気にも留めない素振りを見せている。そんなことは関係なく、目の前の欲求(ラーメン)に忠実な男だ。このアバンタイトルはなんだろう。何を意味しているんだろう。そんな興味で頭がいっぱいになった。

 

この映画が描いてる2021年は、(少なくとも僕が見るに)ディストピア奨学金を抱えた学生は老人介護か自衛隊の海外支援(とゆー名目の何か)に駆り出される。国内でテロが起こっている。東日本大震災で被災した子どもが大人になって荒んだ日々を送っている。自殺者が増加している。

 

そんな時代に生きる二人の男が運命的にボクシングに出会う。きっかけは方や復讐のため、方や住む家のため。基本的にこの二人は今の目の前と過去しか見てない。未来を見ようとしない。できない。とにかく過去を清算するために今を生きる。ボクシングという手段を用いて。閉塞的な時代設定が効いている。

 

前篇で目立ったのが新次と健二(ヤン・イクチュン)のボクシングパートとは別に進むもう一つのストーリー、自殺研究会のパート。街行く人に自殺したと思ったことがあるかどうかを聞いてその理由を尋ねたりするアレな集団。

 

ここは言ってしまえばこの映画の世界に蔓延する問題を説明するようなパートになっちゃってると思う。一応こっちにも前篇でクライマックスのようなものがあるんだけど、うん。前篇の時点ではこれが後篇にどう活かされるのか判断保留的な感じだったけど、後篇まで観ても有意義なパートだとは思えなかったしなんならこれで尺削れただろとすら思った。

 

ただ自殺志願者やそれを追う人たちを描写する意味が全くないとは思わない。なぜなら社会のビョーキに相対的にやられていく有象無象に対して、ただ戦いたいから戦う新宿新次(新次のリングネーム。前後篇通して一番笑ったのはユースケがこれを命名するシーンかも)の絶対性が際立ってくるから。

 

僕はこのことを端的に示しているのが前述のオープニングのシーンだと思ってる。最上級の社会問題と言って良いテロが起こす爆発より目の前の欲を優先する新次の絶対性のこと。命の危機から逃れることより生きるため(=戦うため)の食事を優先する獣のような男。中と外、相対と絶対、有象無象と唯一無二、逃げることと戦うこと、様々な二律背反がせめぎあう素晴らしい掴みだったと今では思う。

 

(ちなみに食べ物を使った演出だと前篇である人物がお弁当を一人で食べながらツーッと涙を流すシーンもとてもよかった。食べ方もいいんだよね。)

 

あとさ、この映画はボクサーの試合前のストイックな禁欲もちゃんと描写するのね。食事制限及び減量は勿論、足にくるからセックスも禁止。新次は普段は欲に突き動かされて生きてるようなヤツで、それは冒頭シーンとか、行きすがりの女とそれこそ獣のようにヤリまくるシーンでわかる。それを試合で全部解放するって理由から来るギラギラした感じにも説得力がある。

 

そして、ヤン・イクチュン演じるバリカン健二はそんな新次に憧れた有象無象の一人。虐待のトラウマから拳闘にも及び腰だったけど、ある理由から新次と戦うことを望み始め、力をつけていく。

 

この二人が戦う事になるのはまあわかっていたとしてもアガるし固唾を飲んで見守らざるを得ない。んだけど、惜しいのは二人が戦うその理由がなんとも弱いこと。ただやっぱりあまりに圧巻のファイトすぎてそんなことすらどうでもよくなってくる。なんならそれまで悲喜交々あったこの戦いを見守る二人の周囲の人物もどーでもよくなってくる。正直この対決は『クリード チャンプを継ぐ男』と比べても比肩するレベルだと思った。

 

後から考えれば言いたいこともある映画なんだけど、とにかく観た直後は座席からちょっと立ち上がれないぐらい食らった。それこそクリードぶりぐらいかもしれない。

 

渋谷シネパレスで後篇観て、すぐにiTunesBRAHMANの歌う主題歌を買って、渋谷から引き寄せられるように歌舞伎町の方に向かって歩いた。歩きたくなった。

 

新宿新次とバリカン健二のことは忘れられない。暗い近未来を生き、戦った二人の男を。

新作映画100:『アウトレイジ 最終章』

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監督:北野武

出演:北野武大森南朋西田敏行ピエール瀧塩見三省原田泰造松重豊大杉漣、白竜、名高達男光石研池内博之津田寛治、金田時男、中村育二、岸部一徳

 

※内容に触れてるからこれから観るやつは読むなバカヤロー※

 

お陰様で新作レビュー100本目でございます。目指せ1000回。

 

まず無印の楽しい殺人描写とか前作『ビヨンド』のバカヤローコノヤロー口撃の応酬とか、そういう意味での集大成を期待していったのはダメだったなと。なんかモードが違うというか、それらはもうやったからって感じ。いやどっちもなくはなかったんだけど。悪く言えば半端な感じもした。

 

大友がほぼ一線から退いてて、最後に全部攫う役どころだったってのもカラーを決めた要因だったのかも。ほぼ最初と最後しか出てないぐらいの印象。きっかけのいざこざと世話になった会長への忠義で汚れ役を引き受け全部攫ってっちゃうぐらいで。そういう意味ではストレートに任侠に生きる大友の新しい面も見れたというか。

 

今回の大友はほぼデウス・エクス・マキナですよね。しかもそれを監督がやっちゃうっていうのが尚更その感じを増してるというか。全部なくなって自分も死んで、「しかもこれでシリーズも終わりなのか」という観た後の虚無感が印象的。往年の北野バイオレンス映画の後味にやっぱり近い。

 

いやただそういうのと同じぐらい悪い意味での虚無感もあったよ。キャストの魅力は明確に落ちてると思った。ピエール瀧は新しいとこ何も見られず関東圏の人間から見ても下手じゃね思うレベルの関西弁しか記憶にないし、原田泰造ロクなセリフが無い単なる鉄砲玉だし、衣装が絶妙にダサくて最高な大杉漣涙袋が爆発しそうな岸部一徳、スクリーンに映った瞬間笑ってしまった韓国マフィアの側近役津田寛治とかもいいんだけどファンサービスの域は超えてない感じもしちゃった。池内博之とか白竜はもっとこう…あっただろう!松重豊塩見三省、そして金田時男が敢闘賞!

 

懐かし北野映画味がほんのり感じられるという意味ではまあよかったのかな。でもアウトレイジの最終章としてうーんというノイズがねえ。

 

新作映画099: 『新感染 ファイナル・エクスプレス』

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監督:ヨン・サンホ

出演:コン・ユ、キム・スアン、チョン・ユミ、マ・ドンソク、チェ・ウシク、アン・ソヒ、キム・ウィソン 他

 

しつこいぐらい言うけど韓国映画の最高なところは登場人物をいじめていじめていじめ抜くところにある。少なくとも韓国ドS映画史みたいなラインはあると思っている。物語も演出もとにかくサド。悲惨。『オールド・ボーイ』『最後まで行く』『息もできない』『シークレット・サンシャイン』『オアシス』などなど。この並びに新たな傑作が加わった。

 

その名は『新感染 ファイナル・エクスプレス』。うーん、ダジャレ。しかもKTXって新幹線?とかそれはいいとしてもなんか第一印象は「はあ」って感じだった。後評判を追って滑り込みで観て自分の見る目なさを恥じた。

 

とにかく118分中108分ぐらいはドSモード入りっぱなし。初っ端のゾンビ発生から「いやもうこんなん無理だよ」と思わざるを得ない。終始そんな感じ。物語と画面作りが常に絶望感を保っている。

 

かと言って単調な訳ではなく、「目視確認しないと襲ってこない」という今作のゾンビルールと「特急の中」というシチュエーションを組み合わせた緩急などもつけてくる。このワンアイデアの相乗効果がフレッシュな画も見せてくれたりするのが楽しい。新聞紙をそう使うかと。

 

 主人公のソグ(髪型も相まって大沢たかおにしか見えない)は嫁と離婚し祖母と娘の三人暮らし。その割にファンドマネージャーの仕事一辺倒で娘に既に持ってるゲーム機を誕生日プレゼントしたりするダメな父親。母親に会いに行く娘の付き添いで乗った釜山行きのKTXの車内でゾンビパニックに会う。

 

ソグは仕事のコネを使って自分ら親子だけ助かろうとしたり、ゾンビから辛うじて逃れた車両間のスペースで老人に席を譲った娘に「そんなことしなくていいから今は自分のことだけ考えろ」と注意したりする。客観的に見ると利己的な人に見える。観てる時はそう思った。ただやってること自体は娘の命を守るためにできることであって、多分同じ状況に放り込まれたら自分もそうすると思うんだよね。満員電車ですら周りの人間に配慮とかしたくなくなるもんね。

 

そんな主演のコン・ユさんがどうだったかと聞かれたら真っ先に挙げて褒めたいシーンがある。部下からの電話で自社が利益目的で違法に支援していた企業の事故で今回のゾンビ沙汰が起きてることを知ったソグが、鏡の前で顔についた血を洗い流すシーン。『第9地区』のヴィカス程じゃないけど、利己的な人間が立ち上がる瞬間はグッとくる。

 

敢えて文句を言うならその後のクライマックス、泣かせるシーンの泣かせるぞてめえ感が強すぎて若干冷めてしまった。どアップでピアノはやめよう。ただ状況が落ち着いたように見えたその後のラストまでサスペンスを維持するエンターテイメント精神に免じて全て許せた。あっぱれ。おススメです。

新作映画098: 『パターソン』

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監督:ジム・ジャームッシュ

出演:アダム・ドライバー、ゴルシフテ・ファラハニ、永瀬正敏、ネリー(犬) 他

 

 

なんせ最近このチラシの裏の更新が停滞気味で、もうこの映画を観たのが1ヶ月前という体たらくです。朧げな記憶を辿ってこの映画の内容を反芻してみました。

 

ニュージャージー州パターソン市に暮らすパターソン氏はバスの運転を生業とする詩人。愛する妻と愛犬と暮らし、平凡な日常の機微を詩という形にしてノートに書き留める日々。彼の一週間を描く。

 

ああ、思い出してたらパターソン氏みたいな暮らしをしたくなってきた。なんなら悲しくなってきた。

 

なぜかと言うと、今年から社会人になったからです。慣れない仕事に振り回され、一日あっという間です。与えられたタスクをこなすので精一杯で、その中に楽しみや喜びを見出す余裕もないような状態が続いております。帰ったら飯食って飲んでゲームやって寝ちゃうし。

 

詩というライフワークを持つところも憧れ。日々ほぼ決まり切ったルーティンに沿って活動してるにも関わらず、その中にある揺らぎや気づきに目をやり耳を傾ける。インプットした半径1メートルを頭の中で噛み締め味わい、詩の形にしてアウトプットする。ある種のルールに従って日常の一部を文字列に変換することで見えてくる美しさ。それで繋がる人と人。素敵ですなあ。まあ僕にとってはそれが映画だったりするんですけど。

 

膝を打ったのは嫁さんに「双子とかできたら素敵やん?」って言われたら街中に双子がいっぱいいるという演出。潜在意識がカットの中に現れるという。映画で人物が見てる世界をこういう風に表現できるんだなあと。

 

特に非の打ち所がない、しみじみ良い映画でした。

 

新作映画097:『スイス・アーミー・マン』

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監督:ダニエルズ

主演:ポール・ダノダニエル・ラドクリフ

 

※内容に触れてます※

 

僕モテメルマガで話題になっていたので、「無人島」「死体」というワードと劇場で見たポスターのビジュアルだけしか知らずに観にいった。

 

最低限の前情報しか入れなかったのが良い方向にはたらいたと思う。とにかく97分間物語的にも、画面に映るものも、全てが予想の斜め上を行きまくる。一体どうやったらこんなことを考え、形にすることができるんだろう。人間のイマジネーションとそれを形にする作り手の成果として感心してしまった。観終わったあとはね。

 

観てる時はとにかく「えっ何これは」という引き笑いの連続。不条理コメディと言ってもいい。スイス・アーミーナイフ(十得ナイフ)ならぬスイス・アーミーマン(十徳人間)を駆使してサバイバル。屁で泳ぎ、身体に雨水を口からマーライオンばりに出し、脊髄を曲げた反動で木を折り、歯でヒゲを剃る。動力源は愛。なんだそれは。しかもこれをダニエル・ラドクリフが迫真の演技でやり切る。ケツも出す。もうこれだけで還暦あたりまでこの映画忘れないよ俺。

 

終始そんな感じなんだけど観終わったあとは謎の爽やかさがある。精神的に社会から弾かれた(と勝手に思ってる)ポール・ダノが誰も人がいないところで肉体的に社会から弾かれた(と地球人なら誰しも認める)ラドクリフに出会う。僕ら観客しか知らない変人二人の世界。人知を超えた変人に出会って一皮むける変人の話。

 

ただ本当のゴールは変じゃない人が「変でもいいじゃん」と変人を認めてあげられるとこな気がする。ラドクリフとの別れの後、ポール・ダノは普通に社会の中で生きるだろう。でもその中で出会った変人のことを認めてやれる男になったんだと思う。同時にダメな自分のことも。

新作映画096: 『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』

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総監督:京田知己

監督:清水久敏

出演(声):三瓶由布子名塚佳織小杉十郎太久川綾根谷美智子森川智之辻谷耕史古谷徹

 

 ※内容に触れてます※

 

 【序文:概要〜テレビ版との出会い】

今回取り上げるのは、2005年に1年間テレビシリーズが放送されたテレビアニメ「交響詩篇エウレカセブン」を再編集し新規パートを追加した作品。一部設定の改変も行われており、三部作の一本目にあたる。ちなみに「神話」をキーワードに2009年に完全新規作画で雰囲気をガラッと変えてセルフリメイクした前作『〜 ポケットが虹でいっぱい』が爆発四散していたのも良い思い出(ここでニルヴァーシュに壁パンされる)。

 

 筆者がこの作品に出会ったのは多分主人公のレントン少年と同じぐらいの歳の頃。アナザーセンチュリーズエピソード3というゲームで始めて知って、空中をサーフボードに乗って舞うロボット(LFO)のビジュアルが気に入りアニメに手を出した。

 

ただ世界観や用語などはゲームという補助線があったから辛うじて分かったレベルで、とりあえず14歳がボーイミーツガールでなんやかんや世界を救うぐらいにしか見てなかった。ただやっぱり独特の(オシャレな)雰囲気が思春期の自分刺さったらしく、主人公をTwitterのアイコンにしたりしてた(今もしてるけど)。

 

全くの余談だけど、テレビ版の最終回でかかる電気グループの「虹」って曲にどハマりしてニコニコ動画を漁ったりしていた。その時アンダーワールドボーン・スリッピーとリミックスした動画を見て今度はアンダーワールドにハマった(去年武道館の単独いった)。

www.nicovideo.jp

 

そこからダンスミュージックに手を出すようになって今の音楽の趣味が固まったような気がする。そういう意味で結構影響を受けた作品ではある。更にちなみに言うとテレビ版の続編の『エウレカセブンAO』の第1話のサブタイトルが「ボーン・スリッピー」で凄い感慨深かったんだよな。まあ1話でなんとなく見るのやめたんだけど。

 

そうやって過去のものになりつつあったエウレカセブンをまたやり直すってことで、僕が期待していたのは「全50話と(無駄に)長いテレビ版を映画3本分にまとめて手軽に振り返れるぐらいにしてくれたら嬉しい」ぐらいのものだった。正直作品としての期待値は低かった。

 

しかし先に書くと今回、僕には本当に良かった。

 

 

【冒頭:ネクロシス作戦(サマー・オブ・ラブ)】

僕はテレビ版も見てるし事前情報も多少入れてたので「あ、これが本編開始前、主人公の父が世界を救った英雄と称えられるまでの出来事ね」とわかったし「何のために、何と戦っている」のかも知ってたから(シン・ゴジラとは違うある種の雑多さも好ましい字幕の情報量に若干当惑しながら)映像や音響の迫力に酔いしれていた。この掴みだけで劇場で観る価値があると思えたのでよかった。

 

ただ初見の人に優しいとは全く言えず、知らない人には多分「地球がヤバくてロボットで守ってる」ということぐらいしかわからないはず。デカい花が咲いて音楽が流れて来たあたりで劇場を後にされても仕方ないよ京田くん。

 

ただ良く言えば説明的でないということでもあるし、それより僕には「このハイエボリューション1を楽しむにあたっては抗体コーラリアンとかスカブコーラルとかそういう細かいとこはどうでもいいですから」と割り切ってるようにも感じられた。というか本当にどうでもいいと僕も思う。

 

つまり、僕が今作に感動したという結果から逆算してみると、この冒頭から得たエッセンスとして活かされたのは「父親が息子に見せたかったすんげーこの世界、そして息子が後に恋するあの子を守って死んだ」ということのみ。それだけわかればよし!!めんどくさい考察はめんどくさいオタクが勝手にやればよし!!

 

あとは副産物?として映像的な快楽や、ファンとしてはたまらないテレビ版のキャラの昔の姿を見てニコニコ楽しんでいた。デューイとホランドの仲良かった頃の掛け合いが可愛い。タルホはこんなに若々しくて可愛かったのにあんなにやさぐれた姉ちゃんになったのかと若干悲しかった。ホランドのせいだろうな。そしてなんと言ってもテレビ版では描かれなかった主人公の父親、アドロックに声を当てた古谷徹さん(ガンダムアムロの人)の熱演が素晴らしかった。

 

 

 【中盤:父と子 】

世界を巻き込むシリアスな戦いから一転、ドタバタした音楽とともに少年のモノローグが入る。「この世界は最悪、キミもそう思うだろ?」まずここで『トレインスポッティング 』を彷彿させるんだけど、パンフで監督が「影響を受けたのかもしれない」と言ってた。意識してないけど結果としてそうなっちゃったんだろう。

 

その少年は荒野の真ん中で数匹の野犬に襲われている。「俺は逃げてるんじゃーない」と虚勢を張りながら酷い顔で号泣している。なぜ今こんなことになっているのか、プレイバックが始まる。

 

このプレイバックが本作の最大の賛否両論点で。犬に追われる現在を基準にして22日前〜2時間前までをシャッフルして描いているところが冒頭シーンからくるとっつきにくさに拍車をかけていることは間違いない。加えてテレビ版から設定が改変されているところ(レントンの出生とビームス夫妻との関係)や、個人的に忘れたところも多々あったため、ファンの僕でも初見時はかなり混乱した。

 

 ただ好意的に解釈するなら、最初に振り返ったあの出来事を最後にもう一度見ることで生まれる悲しさや、構成そのものがレントンの心情に沿ってる(思い出したくない、キミには話したくないとモノローグで言いつつ月光号にいた頃のことを若干思い出してしまうという人間らしさ)ところなど、この構成にしかない良さもあった。

  

内容としては。

5歳で父を亡くした(母親は前からいなかった)レントンビームス夫妻に養子として迎えられるも、空から落ちて来た女の子に一目惚れし、彼女が所属する(名目は)軍属組織に加入するもリーダーのハゲにいじめられたり怖い思い(アクペリエンス)してまた家出、たまたま再開した養父母の元へ再び戻り、安らぎを感じていく。という。

 

テレビ版ファンとしては当然主題だったボーイミーツガールを見に来てるわけで、ここも賛否分かれるポイントだろうなあ。だってエウレカ出てこねえんだもん。

 

ただ僕が(初見はちょっと困惑したけど)そこを不満としなかったのは、今作は父と子の話として好ましいから。実父(アドロック)の下で働いてた義父(チャールズ)が持ち前の男らしさで年頃のレントンの隙間を埋め、彼が最悪だと思ってた、そして亡き実父が見せたかった世界のデカさや素晴らしさを教える。この大まかな流れはテレビ版から変わってないんだけど、改めてタイトにキッチリ見せられるとこんないい話だったのかあ、なんて思ったりした。

 

 

【ラスト:そしてあの子のところへ】

ただ、彼が見た広く素晴らしい世界は時に残酷。再会できた育ての親から離れさせ、あまつさえ戦うべき敵として立ちはだからせる。それでも少年は荒野を一人行く。

 

ここで面白いというか、アニメならではだなあと思った演出がある。時制としては野犬に襲われて泣きベソかいてた数分後のはずなのに、プレイバックを経た彼の顔は心なしか凛々しくなり、なんなら髪の毛も伸びてる(テレビ版終盤の髪型になってる。サムネ参照)。そして一瞬野犬の死骸がカットに映される。パンフレットの藤津亮太さんの解説が良かったんだけど、この野犬が過去を象徴してて、それを振り切って(殺して)未来に進むというね。

 

そして、彼が見る未来にはあの子がいる。始まりはいつも月曜日。次の月曜日をキミと迎えるため。もう彼が過去を振り返ることはないだろう。そして彼が横を見ればあの子がいるだろう。再会まであと8時間。未来への希望をマックスに高めた状態でエンディングを迎える。1回目でもかなり感じ入ったけど、2回目はぶっちゃけ泣いた。まさかあのレントンに泣かされるとは思ってなかった。

(ちなみにエンドロールへの入り方までトレインスポッティング風でそこも個人的に超ツボだった)

 

もう三部作の一本目としてこれ以上ない終わり方だと僕は思う。ハイエボリューション2では皆が見たかったエウレカセブンが観られるんじゃないか。その導入として期待を高めてくれる。彼の未来を見届けたい思いでいっぱいだ。

 

新作映画095: 『三度目の殺人』

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監督:是枝裕和

出演:福山雅治役所広司広瀬すず満島真之介市川実日子橋爪功斉藤由貴吉田鋼太郎

 

 

「是枝監督が法廷劇をやるんだあ。三度目の殺人なんてやっちゃったら死刑でしょ。」なんて予告を観てぼんやり思っていた。福山雅治演じるクールな弁護人と死刑が決まるであろう被告人の触れ合いfeat広瀬すずぐらいの感じをイメージしていた。今思えば脳みそゆるふわすぎる。

 

僕は「三度目の殺人」イコール死刑制度のことだと作品を観て解釈した。まあ十中八九そうなのだろう。自身で原案監督脚本を務めた是枝裕和とこの作品に出資した人たちは中々スゴいなあと勝手に感心していた。

 

ネオ・ウルトラQというドラマで、民主主義に興味を持った宇宙人が地球人に総理大臣とテロリストの命を投票で決めさせるという話がある。主人公がそれを説得する際のやりとり。

「何故デモクラシーに固執するのかという問いに、それに変わるものを人間はまだ見つけ出していないからだと答える。欠陥があったとしても、今ある一番優れたものを使うことしか人間にはできないという。」

(拝借元:http://blog.goo.ne.jp/nexusseed/e/aebfa718acda7da7d2a47bc48412b6ed )

 

まあこの「デモクラシー」の部分を「法廷制度」にそのまま置き換えても通るよなって。そんな危うい土台の上に人の生死の天秤を乗っけることへの疑念、その結果としての死刑は殺人に等しいという主張が伝わってくる。

( ちなみに日本の法廷制度の理念関してはjunky-glamarousさんのブログに詳しいです。

https://ameblo.jp/wildewst-yellow-monkey/entry-12309290644.html )

 

まあでもこれだけだったらドキュメンタリー映画でもできる訳で、この映画のフィクションとしての価値はやっぱり役所広司の演技にもたらされてるんじゃないかなあと。裁判とか死刑とかに限らない、もっと普遍的な人間の渇望というか思念というか。殆ど拘置所の接見シーンだけでこれだけ表せる人もいないでしょうね。ガラスの板を挟んで対する福山雅治に像が被るような撮影も見事だった。